そばに関する資料をまとめたものを抜粋しました。 豆知識程度にお読みください。



蕎麦の異称と語源

蕎麦(きょうばく)という漢字の初見は明らかではないが、中国の梁(502〜557)の時代に刊行された 『崔禹錫食経(さいうせきしょくけい)』に「蕎麦」という文字の記載がある。
ソバの実は熟すると果皮が黒褐色に変わるため、烏麦(うばく)、雪かと見まがう白い花を強調して 花蕎(かきょう)・花麦(かばく)。
また普通種のソバはにおいと味が甘いので甜蕎(てんきょう)・甜きょう麦(てんきょうばく) (管理人註 『きょう』の字はくさかんむりに『収』です)などといって、 ダッタン種も苦蕎麦(にがそば)と区別した。 (管理人註 『ダッタン種』=通常種に比べ寒さに強く、 中国やチベット、ネパールなどで主に栽培されている品種。 味に苦味があるのが特徴で、日本では『苦ソバ』『野ソバ』と呼ばれている)
ソバは茎が弱く強風が吹くと倒伏しやすいところから伏喬(ふくきょう)、 蒙古産のソバは油蕎と呼ぶほか、陪麦(ばいばく)・華蕎(かきょう)などと異称が多い。  朝鮮では木麦(ぼくばく)といった。
中国では唐代(618〜907)に広く栽培され、わが国でも元正天皇の養老六年(722)救荒作物として そばの植えつけを勧められたことが『続日本記(しょくにほんぎ)』に記されている。  しかし、すでに五世紀の中ごろには信州で栽培していた記録があり、 それ以前に朝鮮半島などを経て渡来したものであろう。
その後、延喜十八年(918)の『本草和名』に曽波牟岐(ソバムギ)、 そして『倭名類聚鈔(わみょうるいじゅうしょう)』の二十巻に久呂無木(クロムギ)の訓読が見られる。 蕎は麦とみなされ蕎麦となったが、実体はタデ科ソバ属に属する一年生草本である。
蕎麦をソバムギと訓読したのは実の形がかどばっているためで、 角麦(かくばく)稜麦(りょうばく)の仮字をあてたりした。
また、ソバはムギについで美味であるところから、蕎麦と名づけられたともいう。 ソバムギが下略されてソバと呼ぶようになったのは、室町時代からである。


二八そばの由来

二八そばの呼称については、慶応年間(1865〜68)を中心にして、 それ以前は二八十六文の代価説、それ以降は粉の配合率をとるのがよかろう。
二八そばも時代が下がるにつれて品質が低下し、ついに駄そばの代名詞となってしまった。  どちらも手打ちに変わりはないが、精製の意をこめて「手打ち」といったまでである。
しかし幕末になると二八そば屋までが「手打」「御膳生蕎麦」を名乗り、その判別はつけにくい。
いまも暖簾や看板に、御膳・生蕎麦などと書いたりするのは、当時の名残りであって、 格別の意味をもたない。


「もり」と「かけ」

さて、そば切りは最初そば汁につけて食べる一種類しかなかったが、 元禄のころになると男などは面倒くさがって汁を掛けて食べる風が生じた。
これを後に「ぶっかけそば」として売り出したのが新材木町の信濃屋だという。  それから寒い季節にはそばを温め熱い汁を掛けて出すようになり、器も一つですむところから喜ばれ、 方々で売り始めた。
ぶっかけそばが「ぶっかけ」になり、さらに「かけ」と省略されたのは寛政のころである。
ぶっかけがはやるにつれて、従来の汁をつけて食べるそばを、 安永の初めごろには「もり」と称して区別した。  なお江戸時代に「蕎麦切り料理」といったのは、そば汁を使った料理の意にすぎず、 現在のコースで出すそば料理とは違うことを書き添えておきたい。




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